阪井 あゆみ 熊谷 正寿。 熊谷正寿(GMO)の年収資産や妻と娘!再婚で自宅は豪邸か!?

文学部 教育学科|東北学院大学

阪井 あゆみ 熊谷 正寿

太めの輪郭線が特徴的ですね。 【熊谷】イギリスのジュリアン・オピーという作家の描いたものです。 必要最小限の要素でインパクトを残す彼の作品は、膨大な情報を0と1の組みあわせで処理するインターネットに近い。 本能的に惹かれ、収集していたものを展示しているんです。 【弘兼】熊谷さんがインターネットを知ったのはいつですか? 【熊谷】1993年頃でしょうか。 日経流通新聞で存在を知り、そして秋葉原で初めてインターネットを実際に体験しました。 そのときに「これが世界を変えていくんだろうな」と思って、身を投じる決心をしました。 【弘兼】インターネットを体験して将来の技術だと感じた人は多かったことでしょう。 ただ、そこからビジネスに繋げるのはまた別の話ですよね。 【熊谷】僕は学校を出ていない分、自分自身で勉強しようと思って、財閥グループの歴史や起業家の書いた本を異常なほど読み、成功するビジネスの構造をずっと考えていたんです。 【弘兼】高校を中退されたのは、何か思うところがあったのですか。 【熊谷】僕は高校には首席で入って、入学式では新入生総代でスピーチをしました。 ところが入学してからというもの、「自分はやればできる」と自惚れて勉強をしなくなってしまった。 そこからどんどん成績が落ちていって、同学年の生徒600人中500番台になってしまい、先生にものすごくいじめられて……。 【弘兼】イヤになってしまった。 【熊谷】自分はここにいるべきではないと思ってしまったのでしょうね。 【弘兼】高校を中退した後、17歳で熊谷さんのお父さんが経営する屋の店長になった。 お父さんは手広く事業をやられていたとか。 【熊谷】父は戦争で満州に行っていました。 戦後、日本に戻ってきたときに軍からサッカリンという人工甘味料を持ち帰り、汁粉屋をはじめたそうです。 その利益で映画館、喫茶店、パチンコ屋などを展開していました。 子どもの頃から、レストランに一緒に行ったときには、その店の客単価や回転率の話をよく聞かされていた。 【弘兼】通常の親子とはずいぶん違う会話ですね。 熊谷さんが店長になったのは、長野のパチンコ屋でした。 【熊谷】夜中に「長野の店が上手くいっていなくて困っている」と、隣の部屋で両親が話していたのをたまたま聞いたのがきっかけでした。 父はパチンコ屋をチェーン展開していて、長野にある母の実家の近くにお店をつくっていました。 郊外型の店舗で、千何百坪の土地があり、車を100台以上停められるような規模の店だった。 【弘兼】そこで熊谷さんは、自分が立て直してやろうと思った。 【熊谷】父からすれば、店の立て直しのために僕を送り込んだという面もあるでしょうし、僕が高校を中退してフラフラしているように見えたということもあるでしょう。 当時、僕としては、ディスコのDJや喫茶店など様々なアルバイトをしていたので、特にフラフラしているつもりはなかったのですが(笑)。 【弘兼】年上の部下からの反発はありませんでしたか? 【熊谷】東京の店で1、2カ月の研修を受けた後、長野に向かったのですが、17歳の若造のうえにド素人です。 誰も言うことは聞いてくれなかった。 マネジメントの「マ」の字もなかった。 ゼロから揉まれて勉強することになりました。 【弘兼】学んだこととは何ですか? 【熊谷】3つあります。 まずは、「どのように人を動かすか」というマネジメント。 次に「計数管理」。 パチンコ屋というのは、確率の世界です。 釘を少し動かすと出玉率が変わる。 すべてのパチンコ台の数字を記録して、確率の中に経営を落とし込んでいくのがパチンコ屋です。 出玉管理だけを行う、非常に原始的なコンピュータでした。 パチンコ屋の経営で大切なのは、いかに席を埋めるか、なんです。 暇な店というのは、利益管理ができていない。 つまり、玉が出る台が限られていて、それ以外の台にお客様が座ってくれない。 【弘兼】暇な店であれば、「どの台が出るのか」とじっくり見ることができますものね。 【熊谷】一方、稼働率が高いと、席が空くのを、みんなやりたくてうずうずして待っている。 釘を読まれて出る台ばかりに人がつくと、パチンコ屋は赤字になってしまう。 だから、出る台、出ない台でいかにお客様に等しく遊んでもらえるか、が大切になる。 パチンコ屋って売上高はものすごいんですけれど、利益率は低い。 たくさん利益を取っているようなところにはお客様は来ません。 稼働率を高めて、数%の利益でやっている店にお客さんがつくんです。 【弘兼】先ほどから「釘」という言葉が出てきていますね。 今のパチンコはコンピュータで玉の出方を制御していますが、かつて玉の出方を調節していたのは釘師という職人だった。 【熊谷】僕も釘の調節をしていましたよ。 初めてこういう取材で明かしますが、釘師だったんです。 【弘兼】えっ、本当ですか? 【熊谷】トンカチを叩いて、ミリ単位の調節をしていました。 お客様も必死だから「仕事の後、晩ご飯に行こう」とか、釘師を買収しようとするんです。 もちろんそういう誘いには乗りませんでしたが。 いまだに当時の道具を持っていますよ(写真参照)。 【弘兼】これは年季の入った道具ですね。 熊谷さんの原点がまさか釘師だったとは驚きました……。 そのほか、パチンコ店で学んだ3つ目とは? 【熊谷】3つ目は「顧客心理」ですね。 どうすればお客様が喜んでくださるか。 つまり、あの店は玉が出ると印象づけることでした。 朝一番から打ち止めになるほど玉が出るビックリ台というのをつくってみたり、宣伝活動で他の店よりも玉が出ると印象づけたりして、「出るから人がいる」という好循環をつくりました。 【弘兼】そして短期間で地域ナンバーワンの店にした。 【熊谷】あそこで学んだことが今のベースになっているといえます。 パチンコ屋というのは、それぞれの台が一つひとつの店みたいなもの。 数百ものチェーン店舗を経営しているようなものですから。 【弘兼】熊谷さんはパチンコ屋の店長として成功を収めた後、東京に戻ります。 【熊谷】ええ、父親が経営している東京の会社で働くことになり、江戸川橋の寮に住むことになった。 それがひどい寮でした。 建物全体が傾いていました。 使用できる電気の容量が少なく、電子レンジとドライヤーを一緒に使うとヒューズが飛んでしまうんです。 電気が使えなくなっても、ヒューズボックスが屋上にあって夜中は入れないので、朝までローソクで過ごさなければなりませんでした。 【弘兼】おいくつのときですか? 【熊谷】20歳ぐらいですかね。 ある日、家に帰ってみると、妻がお金がないので明日から働くと泣いていました。 彼女は毎朝、娘を保育園に預けて、ウエートレスのアルバイトをするようになりました。 すると朝、預けられるのがわかっているので娘も泣くんです。 それまで僕は与えられた環境で仕事を真剣にやっていて、自分の人生について深く考えたことはありませんでした。 家族が泣いている姿を見て初めて、「これってもしかしたら幸せじゃないな」と気づいてしまったんです。 【弘兼】仕事に追いまくられていたのですね。 朝から晩まで働いて、家に帰ってから勉強を続けていた。 【弘兼】それでどうしたんですか? 【熊谷】「将来、こうありたい」というのを手帳に書いたら、胸がスッとしたんです。 目の前がぱっと明るくなる、トンネルの外に光が見えたような感じでした。 それから「こんな勉強をしたい」「こんな家に住みたい」「こういう生活をしたい」と、将来やりたいことを手帳に全部書き出していきました。 【弘兼】目標を可視化したわけですね。 【熊谷】次にその目標に優先順位をつけて、自分の将来をこうしたいという年表をつくっていきました。 僕はそれを後に「未来年表」と呼ぶようになりました。 20歳から先の35歳まで「15年計画」というのを立てたのです。 【弘兼】その未来年表に書かれたことの一つが、35歳までに自分の会社を立ち上げて、上場することだった。 【熊谷】ええ。 結果としては、35歳ではできず、36歳と1カ月で上場しました。 熊谷は91年に「ボイスメディア」を創業。 これが後のGMOインターネットとなる。 95年にインターネット事業に参入し、インターネットのインフラ事業に軸足を置いて事業を拡大してきた。 99年には独立系インターネットベンチャーとして初の上場を成し遂げた。 その後、ネット広告・メディア、ネット証券、スマートフォンのゲーム事業にも進出。 2016年6月時点で、GMOインターネットグループは、上場企業9社を含む、グループ89社、スタッフ4900人超、15年の連結売上高1263億円、営業利益は148億円と過去最高を記録している。 【熊谷】34歳のとき、20歳でつくった15年間の年表があと1年で終わると思い、「55カ年計画」をつくりました。 様々なケースを想定してエクセルに入れていくと、90歳までの目標売り上げは10兆円、従業員数は20万人になりました。 【弘兼】壮大な数字ですね。 【熊谷】ちょっと大きすぎるように思ったのですが、当時のトヨタ自動車とほぼ同じ規模ですので、実現可能な範囲だと思っています。 【弘兼】その予定は順調ですか? 【熊谷】07年度に大失敗し、だいたい7年前後遅れています。 今はその失敗をする前の状態にまで立て直したという状況です。 【弘兼】05年に買収した消費者金融会社の過払い金返還の件ですね。 引当金積み増しが経営を圧迫して、金融事業から撤退。 結果、約400億円の損失を出し、倒産の危機にあったようですが、どう乗り越えたのでしょうか? 【熊谷】それもやはり手帳でした。 本当に会社が潰れそうになりましたから。 【熊谷】スマホ、パソコンでもスケジュール・目標管理をしていますが、想起デバイスとしては紙の手帳が一番です。 夢を実現するには繰り返し、思い返すことが必要。 潜在意識に叩きこまなければならない。 自分で繰り返し書いた文字や写真を手元に置いて見るには手帳しかない。 【弘兼】GMOが倒産の危機を乗り越えて、今も生き残って成長しているのはなぜだと思いますか。 【熊谷】人には寿命があり、時間というのは命そのものでもあります。 会社というのはスタッフの命を捧げてもらって成り立っています。 だからこそ僕は、会社は続かせなければならないものだと考えています。 20代の頃から、競合相手が現れても負けないためにはどうしたらいいのか、競争力を失わないためにはどうしたらいいのかを考え続けてきました。 その結果、電気やガスと同じように消えてなくなることのない、インターネットのインフラやサービスインフラに経営資源を集中させてきました。 また、生き残るためにはナンバーワンでなければならない。 現在展開している、ドメイン事業、レンタルサーバー事業はシェア数、決済事業は決済額の規模で、国内ナンバーワンです。 これらのサービスは一度契約してもらうと、継続的に収益が入ってくるストック型のビジネスなので経営も安定します。 【弘兼】長く続く会社にするために、インフラ、ストック型、ナンバーワンであることにこだわった。 今度は、あおぞら銀行と提携してネット銀行を運営されるそうですね。 いわゆる「フィンテック」と呼ばれるIT技術を使った新たな金融サービスに乗り出すわけですが、これも「長く続く会社にする」という考えに沿ったものなのでしょうか。 【熊谷】金融事業というのはインターネットと非常に親和性が高い分野です。 僕らが強みにしてきたドメイン事業、レンタルサーバー事業では、必ず決済が必要になるからです。 また、インフラ事業と同じで、経済のインフラにあたる銀行がなくなることもありません。 さらに、融資や決済で収益を上げることは、ストック型のビジネスでもある。 この分野を今後はさらに強化していきます。 ただ、ビジネスの世界では、イケメンというのは実は不利。 格好がいいだけで仕事ができないと思われがちだからです。 今回、熊谷さんと対談して、端正な顔の向こう側にある凄みの根源を知りました。 かつて、柳井正さんから、経営を勉強するには、小さな店でいいから、自分でやることだと聞いたことがあります。 熊谷さんはそれを17歳のときにパチンコ店で実践していた。 もう一つの強みは、自己管理力の高さです。 熊谷さんはこう言いました。 「夢のベースになるのは健康なんです」 多忙な中でも、必ず週に2日はパーソナルトレーナーの指導のもと、専用のジムでトレーニングを行っているそうです。 ベンチプレスに至っては、100キロを上げるとも聞きました。 「漫画を描いていると筋力が衰えます、アンクルウエートを付けたらどうですか」と勧められたのでした。 ----------.

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GMO熊谷正寿社長が初めて明かした過去「パチンコ屋の釘師だった」

阪井 あゆみ 熊谷 正寿

美容事業を始める 熊谷正寿は1991年5月、28歳の時にボイスメディアという会社をつくり企業家のスタートを切った。 パーティラインという電話会議装置をつくり、大ヒットした。 月に2000万円の売り上げが立った。 上々の滑り出しといえる。 ただ、新会社には難点があった。 ダイヤルQ2を利用した事業だったため、高額課金や未成年者の利用などで社会問題化してきた。 「これは長続きしない。 別の事業を考えよう」と思った熊谷は美容事業を始めた。 GMOが美容事業を手がけるー。 今の読者から見れば違和感を感じると思うが、案外、当時の熊谷には自然だった。 まず、熊谷の母親が美容師の家系であったほか、叔母も美容院を経営していた。 熊谷は子供の頃、夏休みには叔母の美容院に遊びに行き、終日を過ごした。 そんなこともあって、美容事業を始めた。 あるアメリカの大手美容会社の代理店となった。 三越など大手百貨店に7店舗出店、化粧品店とエステを経営した。 東京・青山と大阪・梅田にエステ専門店を開設した。 女性の美容部員約100名を雇い、ハワイなどに社員旅行したこともある。 「日本最大級の美容産業のオーナーになる」と熊谷は一時期本気でそう思ったこともある。 しかし、美容事業は表向き華やかだが、競合も沢山いて、簡単ではない。 エステは前受け金が入って来て、資金繰りは楽なのだが、化粧品事業は商品開発など先にカネが出て行く。 アメリカで作った化粧品を日本に持って来るのだが、アメリカでは許可されている防腐剤が日本では許可されておらず、同じブランドでも日本で作り直さなければならないこともあった。 事業がなかなか軌道に乗らなかった。 インターネットにめぐり合う どうしようかと迷っている所へ、インターネットとめぐり合った。 熊谷は10代後半から雑誌や新聞などを見て、ありとあらゆる情報を収集する習慣があった。 その情報収集の中からインターネットの足音を聞きつけた。 「これからインターネットをやる人が増えるだろう。 ネットの接続であるプロバイダー事業をやろう」と思い付いた。 当時、ネット接続事業は申し込んでから口座引き落としの手続きまで約1カ月かかっていた。 これをダイヤルQ2とプロバイダーを結びつけ、1日でネット接続が出来るようにした。 革命である。 95年、ボイスメディアからインターキューに社名変更し、本格的にインターネット事業に乗り出した。 インターキューの事業は爆発的にヒットした。 これは世界初の発明だった。 同時にこのブロバイダー事業のフランチャイズ・チェーン(FC)化を考えた。 自社だけで全国展開すると、運転資金が莫大に要った。 そこでFC化し、1エリアを売って、2エリアを直営にするやり方である。 このFC化も世界初の試みだった。 この辺りから熊谷はインターネットの寵児ともてはやされ、99年、同社をジャスダックに株式上場、未来年表に1ヶ月遅れ36歳で株式上場の夢を果たした。 インターキューの株式上場と相前後して、技術担当役員、リチャード・リンゼイと米国西海岸のナパバレーを訪れた。 一流大学を卒業した技術者はITベンチャーには来てくれず、NTTや東芝、ソニーなどに就職した。 そこでアメリカの退役軍人だったリチャードにインターキューの技術担当役員になってもらった。 熊谷もリチャードも酒飲みでナパバレーにワインを飲みに行こうということになり、ナパバレーを訪れた。 ワインを飲んだ帰り、リチャードに案内されて、ある施設を訪れた。 部屋に入ると、見知らぬ装置が並んでいた。 「リチャード、これは何だ?」 「サーバーですよ」 「サーバーって何だ?」 「情報をあらゆる企業や個人に配信する装置ですよ」 察しの良い熊谷は「これは次の事業になる」とピンと来た。 実はプロバイダー事業を始めた時、熊谷にはひとつ不安があった。 「仮に、日本人全部がインターネットを利用したとしても、最大1億2000万人。 1億2000万人全部がインターキューの顧客になっても、接続してしまえば、それ以降は売り上げが立たない」。 しかし、情報なら無限に広がる。 つまり、企業も個人も情報も無限に発展し続けるだろう。 「サーバー事業は無限に広がる。 プロバイダー事業の次はサーバー事業で行こう」と決めた。 さっそく、日本に帰って、データセンターとドメイン事業に着手した。 電話で言うなら電話番号のようなものだが、それまでは英語でしかも値段が高かった。 熊谷は日本語のドメインを格安の1万円で販売した。 あっと言う間に1万社が導入した。 月1万円の商品が1万社なので、1億円となった。 同時にリチャードを中心とする同社の技術陣をICANNというインターネットの国際管理団体にボランティアで派遣した。 その功績が認められ、アジアで最初のドメイン登録事業者の免許をもらった。 インターキューは「お名前. com」で売り出し、爆発的にヒットした。 こうして、99年8月27日、ジャスダックに日本初の独立系インターネットベンチャーとして上場を果たしたのである。 時価総額は1000億円を超え、インターネットベンチャーのホープと見なされた。 そして上場時に、証券会社のアドバイスに従って美容事業は撤退した。 上場と同時に再び、未来年表を作成した。 今度は55年計画で、熊谷が90歳になるまでの年表である。 健康には、自信があり、90歳まで精一杯仕事が出来るだろうと思った。 その時につくった55年計画では、最終的な売り上げが10兆円、従業員20万人、グループ企業数207社となっている。 なんとも気宇壮大な夢である。 孫正義も創業時に「兆円企業になる」とうそぶいたが、現在、米スプリント社を買収して売り上げ6兆円強、時価総額8兆円(日本3位)を実現した。 熊谷の夢も荒唐無稽ではない。 孫正義に出会う 世間も熊谷を注目した。 注目した人物の1人が孫正義だった。 上場直後に東京・麻布の孫の豪邸に呼ばれた。 新市場、ナスダックジャパンを開設するので、運営会社の発起人になってくれ、という。 東京・麻布の孫の自宅には、他の経済人も声を掛けられており、みんな秘書と車付きで来ていた。 熊谷だけは歩いて1人で孫邸に乗り込んだ。 都心のド真ん中に敷地面積1000坪の豪邸。 ライバルのビル・ゲイツはシアトルに敷地面積1万坪の邸宅に住んでいるということだから、それに比べると、孫の邸宅は小さい。 とは言っても、孫に案内されて邸宅の中に入ると、地下に孫自慢のゴルフの練習台があった。 この練習台のスクリーンには、ペブルビーチなど世界の有名コースが映し出される。 「今晩はぺブルビーチを回るか」と言って、セットすると、同コースの1番ホールが映し出される。 孫がドライバーで270ヤードかっ飛ばすと、スクリーンには第2打地点から望むグリーンが映し出される。 アイアンで第2打を打てば、ボールがグリーンに落ちる。 孫は毎晩1ラウンド回って、昼間の仕事の疲れを癒す。 熊谷はこの練習台を見て、「いつか、自分も豪邸を持ちたい」と思った。 そう思うと、腹の底から闘志がわいてきた。 孫は熊谷に「熊谷さんの会社からナスダックジャパンに会社をドンドン上場して下さい」とハッパを掛けた。 熊谷は孫の期待に応えて、さっそく「まぐクリック」をナスダックに上場した。 しかも、会社設立から364日での短期上場。 この日本最短記録はまだ破られていない。 この時に、西山裕之(現GMOインターネット専務)をスカウト、彼が大活躍した。 財務担当専務の安田昌史もまぐクリック上場時に出会った仲間だ。 安田は公認会計士で、監査法人センチュリー(現あづさ)で働きながらインターキューに来ていた。 2000年ごろGMOインターネットに入社した。 熊谷は入社を誘い、会社をグループ化するのが実にうまい。 決して強引には傘下に納めない。 安田を誘った時も「インターネットは産業革命だ。 一緒にやろうよ。 つまらないことをやるよりこっちの方が面白いよ」と笑顔で誘う。 熊谷は父、新の言葉をよく憶えている。 「一つのカゴに卵を盛りつけてはいけない。 カゴを落としたら、全部割れてしまう」と映画館、パチンコ、不動産業、レストランなどを手がけていた。 熊谷は父親の教えを守り、いろんな事業を考えた。 その一つが美容事業だった。 しかし、考えつく事業は皆、メインストリームではなかった。 大ていは隙間産業だった。 そこで、インターネットと出会った。 「これだ!これはもしかしたら、すごいことになる。 これこそマルチメディアの本命だ」と思った。 当時はインターネットよりマルチメディアという言葉が流行っていた。 05年4月には、連結子会社GMOペイメントゲートウェイを東証マザーズに上場させた。 これに先立ち、インターキューは01年にグローバルメディアオンライン(GMO)と社名変更し、04年2月に東証2部に上場している。 GMOペイメントゲートウェイはインターネットの決済会社だが、この会社も2つの会社を合併させて、グループ化した。 まず最初にグループ化したのはペイメントワンで、村松竜(現GMOペイメントゲートウェイ副社長)が社長として経営していた。 村松は大手ベンチャーキャピタル、ジャフコの社員で、インターキューに投資した担当者。 熊谷にとっては恩人の1人だ。 村松はインターキューが上場後、時価総額が1000億円強となったため、ジャフコの中でMVPに輝いた。 その功績が認められ、ジャフコアメリカの駐在員となり、その後ネット決済会社、ペイメントワンを設立、独立した。 しかし、ネット決済会社は事業が拡大すればするほど運転資金が必要。 資金がショートし、熊谷の所に相談に来た。 熊谷はペイメントワンを買い取り、ネット決済事業に参入した。 その結果、これまで取り引きしていたネット決済会社が要らなくなり、取り引きを停止した。 停止された決済会社の社長が熊谷の所に飛んできた。 それが現在GMOペイントゲートウェイ社長の相浦一成である。 相浦は明治大学ラグビー部出身の猛者で、威風堂々としていた。 熊谷は応接室で相浦と対峙した。 相浦の言葉は紳士的だったが、迫力があった。 相浦のカードコマースサービス(CCS)はMTI社長の前多俊宏が大株主。 前多にとっては、CCSはコア事業ではなかったので、前多のCCS株を37 億円でGMOに売ることになった。 これによって、ペイメントワンとCCSを合併させ、GMOペイメントゲートウェイにした。 同社は05年にマザーズ、08 年に東証一部に昇格、売り上げは47億円(2012年9月期連結決算)と小さいが、時価総額は約400億円あり、GMOグループの3割近くを支えている。 梁山泊型仲間づくり 熊谷は決して無理をせず、ゆるやかな提携関係をめざす。 「私は資本提携の戦略をM&Aだとか買収だとかという言い方をしない。 お互いに支配し合うのではなく、志の高い者が力を合わせて大事を成すイメージを大切にしている」という。 ベンチャー界の貴公子らしい。 「ベンチャー同士で潰し合って、どうするんだ。 本当の敵は他にいるのではないか」と警鐘を鳴らす。 たとえば、NTTやKDDIは今は回線拡大の方に力を注いでいるが、回線が一段落したら、熊谷たちの事業領域に参入する可能性は十分にある。 その時に備えて「ベンチャー同士は大同団結すべきではないか」というのが熊谷の論理なのだ。 「うちはベンチャー企業の集合体のようなもの。 だから私の部屋は社長室とは言わず、役員会議室と言っている」と熊谷は語る。 サイバーエージェントとの資本提携を呼びかけた時も熊谷流に終始した。 1998年秋、熊谷はネット広告大手として将来性を期待されたサイバーエージェント社長の藤田晋を訪れた。 熊谷は持ち前の笑顔を振りまきながら、こう切り出した。 「サイバーエージェントに出資させて下さい」 子会社化は困ると思った藤田はやんわりと断った。 「30%とか40%の出資に応じる事は出来ませんが、多少の出資増なら喜んで」 脈がないと悟った熊谷は「わかりました」と、その場は引き下がった。 ところが、ここからが熊谷流。 何かの理由をつけては足繁く藤田の所に通い、それとなく買収を持ちかける。 藤田は熊谷に買収をあきらめさせるのに相当気を使った。 お互いに資本を持ち合い友好的な関係をこわしたくなかったからだ。 藤田は当時を振り返りながら述懐する。 「強引にやろうと思えば、買収できたのに、熊谷さんはそうしなかった」 熊谷流M&Aはあくまでスマートだ。 楽天の三木谷浩史は強引な手法でTBSを買収しようとして失敗した。 もし、熊谷のように笑顔で迫っていたら、あるいはTBS首脳陣も気を許し、インターネットとテレビの融合が実現していたかもしれない。 こうして、熊谷はGMOクラウド、GMOアドパートナーズ、ペーパーボーイなども上場させ、ソフトバンク、楽天に次ぐインターネット企業グループに成長していった。 正に、順風満帆、2053年(熊谷90歳)に売上高10兆円、従業員数20万人の大目標に向かって、航海しているように見えた。 しかし、とんでもない大嵐が行く手に待ち構えていた。 それは、熊谷がかつて味わったことのない試練だった。

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松浦勝人の嫁は畑田亜希!年収や資産の噂と子供はどうなのか!

阪井 あゆみ 熊谷 正寿

企業の成長を阻む要因とは 関口和一氏(以下、関口):一方でですね、成長したいと思っていてもできない時とか、苦しいときって多分あると思う。 さっきも、2007年の話を熊谷さんがされていたと思うんですけれども。 ですから、成長を阻む要因として、こういうことは気を付けなければいけないのじゃないか。 それは内的な要因もありますし、外的な要因もありますし、あるいは自分自身の中にもあると思うんですよね。 そういう皆さんの体験を踏まえていうと、これはやっぱりまずいよねというのがあったら、あえてご紹介いただきたい。 それと、それをどうやって自分は乗り越えたか、という観点でいうと、さっきの2007年の話が出ましたけども、成長を阻む要因としてはどういうものがあり得るのか。 大企業で言えば大企業病みたいなものがありますけれども。 どういったものが成長を阻む問題として、熊谷さんはとらえられていらっしゃるのか。 それをどうしたら克服できるのかなど、いかがですか? 熊谷正寿氏(以下、熊谷):ひと言で言うと、成長を阻む要因は、失敗したときに認めないこと。 失敗はそれこそ諦めなければ最大の成功なんだけど……。 失敗して諦めちゃう、あるいは失敗したことを認めないことですね。 VCの投資の案件に私も出席して、審査したりすることもあるのですけれど、うまくいってないんですよ。 うまくいってないのだけど、それをやっぱり認めてないから。 もう明らかに間違っていることにずっとこだわっちゃっているみたいなところもあったりとか。 それって成長しないですよね。 やはり成長は、いかに自らが知らざるかを知ることで。 余裕のないチャレンジは失敗しやすい 熊谷:失敗をポジティブに認めたときにこそ、成功、成長のきっかけがつかめるわけじゃないですか。 だから、やっぱりそこってすごく大事だと思いますね。 あとは小学生みたいですけれども、「なぜ?なぜ?」って。 子どもは、「なぜ? パパどうして?」って言うじゃないですか。 あれも実は経営にすごく重要な要素で、「なぜ?」って絶えず思っていたりしないと問題点に気づかないんですよね。 組織というのは、実は問題の巣なんですね。 組織は問題の巣である。 問題がないとすると、組織に目標がないか、管理者そのものが問題か、どっちかなんですね。 だから、必ずなぜなぜ病というのがすごく重要で、それを忘れたときに成長は止まりますよね。 以上です。 関口:森川さんはどうでしょうか? 成長を阻む要因って、なんですかね? 森川亮氏(以下、森川):大きく上って成長してきて、そのときに僕たちの会社は、プラットフォームを作ってきたんですけれども、プラットフォームを作るときっていうのは、すごくリスクもあって、それを考えるとあまり誰もやっていなくて。 ただこれから伸びそうで、かつ伸びたら大きいものに投資してきたのかなと思います。 ただ、それってタイミングがすごく難しくて、失敗すると大きなリスクになるんですよね。 ちょっとお話を戻すと、まず重要なことは余裕がないとダメだと思うんです。 余裕がなくてチャレンジすると、長期的にコミットできないと僕たちのチャレンジってうまくいかないので……。 そうすると途中で失敗するというのがあるので、まずは余裕がひとつ。 あとは、ある程度いけると思わないものはあえて待ったほうがいいのかなと。 ある程度見えたときに、どんと階段を上るような、そういう目指す方向とタイミングが結構重要かなと思います。 成長を阻むのも人間、例えば役員とか(笑) 関口:次、松本さんにお聞きしたいのですけれども。 このあとに会場の皆さんから何でも結構ですので、ご質問をいただきたいと思います。 それを踏まえて、今度またこっちに戻して、あとの議論を続けたいと思うのですが、じゃあ、松本さんのほうはいかがですか? 成長を阻む要因というのは、会社の経営にとってどんなことが言えるのでしょうか? 松本大氏(以下、松本):成長のドライバーというのは、やっぱり人間なんだと思うんですよね、経営者とか。 だから、成長を阻むのも、成長を阻むような人材。 役員とか(笑)。 それは取り除かなければいけない。 それから自分の中に弱気になるとか、そういうことがあったらそれは、無くさなければいけない。 無くせないなら辞めなければいけない。 成長を取りにいくというのはリスクを伴うことなので、経営陣を考えたときに全くリスク感覚がない人ばかりで経営しているのも、いかがなものかと思うのですけれども。 やっぱりそういう成長に対する意欲、リスクを取る意欲が減らないように整理をしていかなければいけないんだと思いますけれどもね。 仕事に対する好奇心をなくしたら、ビジネスは負ける 関口:ご自身としてはどうですか? そのボルテージは今も変わってないですかね? リスクを取ろうという意識。 ある程度500億円くらいの会社のトップになっていると、「俺もここまで来たからもうそろそろいいかなぁ」という気持ちも、どっかで芽生えてきても不自然ではないと思うのですけれども……。 松本:いや、僕は変わってないです。 というか、自分のやっている仕事に対する好奇心がもし落ちたら、絶対ビジネスは負けるというふうに自分に言い聞かせてきていて。 言ったからといって好奇心の高さを変えられるわけではないのですけれども、幽体離脱みたいにして自分を見たときに、自分のビジネスに対する好奇心は10年前、15年前、創業時と変わってないだろうかと。 下がっていたら勝てるわけがないと、他の会社に比べて。 と思うようにしていて。 リスクに対してもそうですね、成長に対するリスクを取る気があるか。 取れなくなっているなら、もう成長しないよというふうに自分には言っていて。 そうするとストップウォッチがなければ速く走る練習ができないように、自分自身の好奇心とか、リスクに対する気持ちというものをちゃんと測るように自分の中で努力していれば、案外維持できるとは思っていますけどね。 好奇心がなくなったら辞職を覚悟 関口:それは自分に対してどうやって言い聞かせるんですか? 毎朝、鏡に向かったときに、「お前ちゃんとやっているか」とか、何でもいいんですけれども。 そういう自分のテンションを下げないためには、どんなことをされているのですか? 松本:ちゃんとやっているか? とは言わないんですよ、自分に。 そうではなくて、要するに好奇心が下がっているとか、弱気になったら必ず負けるんだよ、というふうに思っているだけ。 ……わかります?(笑) 思っていると、私の場合は怖くて下げられないんですよ。 好奇心を下げることができない。 ただそういうふうに思っていると。 「ちょっと下がってきているな」とか、「ちょっとリスクに対する気持ちが取れなくなってきたな」というふうに、どこかで自覚したら、とっとと辞めなければいけないというふうに思っていますけどね。 関口:熊谷さんはそういう意識というのは、どうやって自分で意識づけをしているんですか? 熊谷:自分でモチベーションを上げるしかないですよね。 もう意識の問題で、俺やるぞーって思っているしかないと。 あとはテクニカルには運動することですかね。 関口:運動? 熊谷:はい。 スクワットとかしていると、アドレナリンがブワーッと出てきて(笑)。 関口:健康は大事ですよね。 熊谷:はい。 健康はすごい大事です。 僕は最近、仕事よりも運動を優先にしていますから、50歳になって。 50歳までは仕事を優先にしていたんですね。 50になってから、いろいろ人生見直そうと思ってひとつ決めたことは、運動を優先するという。 今ベンチプレス100キロ挙げるんですけれども、アドレナリン出まくりですよ。 俺は絶対挙げてやる、ドーンって(笑)。 運動はいいと思います。 質疑応答 関口:では、会場の皆さんからぜひご質問をいただきたいと思います。 はい、真ん中で手が挙がりました。 質問者:本日は貴重なお話ありがとうございます。 大変勉強になります。 私自身は、前職がベンチャーで働いていまして、今が外資というところに身を置いて働いているので、その観点でふたつほどご質問させていただきたいのですけれども。 ベンチャーで働いているときは、みんな最初はウォーって形でモチベーションの高い人がたくさんいて、高い目標をどんどん掲げていって、人が採用され増えていくと、例えば、最初にドロップアウトする、ついてこれないという人が1パーセントだったものが、それが20パーセントになってきて、30パーセントになってきて、という形で目標が高過ぎてついていけませんという人が増えてきます。 皆さんがそのステージに来たときに目標を下げるのか、あるいはそれ以外の回避策でついてこれない人を、ついてこれるようにどうやってしたのか。 まず、これがご質問のひとつ目です。 もうひとつが、私自身の目標でもあるんですけれども、将来的に国をまたいだ形で、マネジメントできるような人材になりたいというところで、世間一般的にやっぱりいわれているような内容なのですが、日本人でインターナショナルな環境で上がっていくのはなかなか難しいと。 やっぱり、インド人とか中国人とかがほとんど。 国をまたぐ、マネジメントだとその人たちが多いと。 先ほど知らないことを知るという非常に心に響く言葉があったのですが、私自身、シンガポールで採用のトレーニングをしてきたときに、日本人が上にあがれないのって、語学の問題だけかな? と思っていたのです。 例えば、「採用のときに年齢を聞いてはいけない」とか、「若い人が欲しいと言ってはいけない」とかいうことを全く知らなかったことなど、ふと考えさせられることもあって。 皆さまは事業がグローバルに拡大していくということがたくさんあると思うのですけれども、人をグローバルに拡大させていくために、どういったことをされているのかと。 この2点をお伺いできればと思います。 ベンチャー企業に必要なのは「結果」だけ 関口:はい、前半は組織全体としてのモチベーションをどう高めていくか、2番目は人の問題ですね。 誰からいきますか? 松本さんやります? 松本:ベンチャー企業はチームですよね。 昔『がんばれ!ベアーズ』という映画があって、僕は大好きな映画なんですけれども。 ご存知ない方のほうが多いと思うのですが、少年野球でボロボロの選手達で勝つ話なんですけれどもね。 結局会社は、ベンチャー企業はベアーズみたいなものなので、結果だけだと思うんですよね。 ベンチャーに限らないですけどね。 仕事は全部結果だけなので、目標をどこに持つかとかそういうのは……。 結果だけが評価基準なので、(目標を)適宜下げたり、変えたり、違う言い方したり、いろいろやるしかないと私は思いますね。 ふたつ目の質問、最後よくわからなかったのですが……。 関口:ですから、海外、国際化の時代、人材をどう採っていくかという話ですよね。 松本:あー、どうやって採っていくか?(笑) 関口:じゃあ、もう1回、ちょっと……。 質問者:そうですね、例えば日本にいると差別とか、セクハラとか、パワハラとか、マネージャーが知らなくてはいけないことって学べなかったりする関係だと思うんです。 要するに、日本の文化って、グローバルのなかで特異なのかな、というところがありまして。 では、ビジネスをグローバルにしていこうという時に、人もグローバルに日本から出していくという中で、どうやってそういうグローバルな人材を育てていくのかなという。 それは自分が勝ち気な性格だからかもしれませんけれども、実際そんなことないと思いますね。 あんまり一般化しないほうがいいと思うんです。 ジェネラルにしないほうが。 個性が違うので。 私がよく思うのは、たとえば22歳の日本人とアメリカ人の違いと、日本人の22歳と42歳の違い。 考えると後者のほうがはるかに大きいんじゃないかと思っていて。 若い人はどの国でもみんな同じですよね、柔軟性とか。 日本にいると、確かに時間が経つとだんだんダメになってきちゃうということがあるのですが、でもそれは、組織の性質なんでしょうけれども……。 あんまり一般化しないほうがいいと思います。 いくらでも日本の中でもグローバル人材っていうのはいると思うんですよね。 あんまりインド人、シンガポールじゃなきゃダメだとか思わなくても僕はいいんじゃないかなというふうに思いますけどね。 目標や評価をガラス張りにすることで会社を活性化させる 関口:では、熊谷さんどうでしょう? モチベーションとあと国際化の話。 熊谷:そうですね。 ご質問に回答しますけど、2割のスタッフの方がついてこれなくなったときにどうしたらいいか? そういうご質問でしたね。 それは仕組みをつくることなんです。 では、うちではどういう仕組みをつくっているかというと、すべての評価をガラス張り。 ダメな人にダメとわからせるのは、上司が言ってもだめなんで。 やっぱり360度評価とか、目標を全員に開示して、それをみんなでチェックする仕組みとか、そういうものをガラス張りでつくることがいいと思います。 うちは例えば、4,000人の全スタッフのうち、だいたい80人とか90人ぐらいが各社の役員なんですけど、全目標、全報酬、全部ガラス張り。 全部見れる。 それぞれが360度みんな見れる。 あと本社400人ぐらいの給与も全部ガラス張りです。 等級すべて開示。 ガラス張りにすると、「なんだ、あいつはあんなに仕事をしていないのに、あんな給料もらってるんだ」みたいな、そういうことが自然発生的に浄化作用になって、改善すると思います。 多分、国際企業だと、報酬とか目標がガラス張りになっていないでしょう? 質問者さんどう? 質問者:ええ、なってないです。 熊谷:なっていないでしょ。 そこをいじくれば、たぶん全体が活性化しますよ。 これひとつ目の回答でいいですか? 質問者:ありがとうございます。 モチベーションが無い時点で選手交代 熊谷:ふたつ目だけど、僕はあんまり。 確かに、日本語圏と英語圏というと、14. 5倍とか15倍くらい人口の差があるんですね。 そういう意味では海外進出する場合に英語圏にいったりすると、日本人が不利というふうに考えがちなんだけど、でもそれって小さな話で、僕も松本さんの意見に賛成で、実はあんまり変わらない。 特に、若い人が柔軟なのは変わらない。 歴史的に見たって、例えば1番古い歴史を紐解くと宗教だけど、キリスト教は世界中に布教している。 言葉の壁を乗り越えて。 私は少林寺拳法を茶帯でやめちゃったんだけど、少林寺は日本発だけど世界中にありますよね。 仕組みをつくって考えて、いろいろ展開していけば、海外展開なんてものは全然難しいものだとは思っていないです。 以上、ご質問のご回答になりましたでしょうか? 質問者:ありがとうございます。 頑張って上を目指します。 熊谷:はい。 関口:せっかくですから森川さんにも。 森川:まず、モチベーションの話なんですけれども、僕たちは会社というよりは、例えばスポーツチームで考えたときに、スポーツチームでレギュラーなのにモチベーションが無かったらどうなるかということだと思うんですよね。 特に会社というのは、プロフェッショナルなチームなのでモチベーションが無い時点で、たぶん選手交代ということになっちゃうと思うんです。 基本はモチベーションが高い人が多ければ多いほど、もっとみんなモチベーションが上がるんじゃないのかなと思うので、そもそもなぜモチベーションがないのかというところが、すごく重要な問題かな。 もっとモチベーションが上がるところに移った方が、もしかしてその人にとって幸せであれば、それもひとつの選択肢かなというふうに思います。 海外の人材に関していうと、やっぱり詳しい人に任せるのが1番いいと思うんですよね。 そこは別に日本人だからとか、何人だからとか関係なく、そこに詳しい人に任せて、あとは結果を見て判断していくという非常にシンプルなやり方が重要かなと思っています。

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