断片 類語。 独断専行の意味とは?使い方や類語・対義語を解説

「ヘラクレイトス」の思想とは?名言「万物は流転する」の意味も

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Proc Natl Acad Sci 65: 168—175. Jovin, T. , et al. 1969. Biol. Chem. 244 11 : 2996—3008. Saiki RK et al. 1985. Science 230: 1350—54.

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「全幅の信頼」の意味とは?類語、使い方や例文、反対語を紹介!

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「全幅の信頼」の意味とは 「全幅の信頼」の 「全幅」とは、 「幅の全て」つまり 「幅いっぱい」という意味になります。 例えば目の前に白い布があるとイメージしたら、白い布を丸ごと、全部が 「全幅」となります。 余すことなく、全部という意味が 「全幅」にはあります。 また 「信頼」は 「頼りにできると信じる」という意味になります。 「頼りにする」 「信じられる」という、人間関係ではかなり難しい重要な要素を含んでいます。 「信頼できる」というだけでも、かなり気を許した相手だとうかがい知る事ができますが、 「全幅」が付くと、 「完全に信頼している」という意味になり、相手への強い好意や確実性を信じる気持ちを感じる事ができます。 「全幅の信頼」の使い方 「全幅の信頼」という言葉は、 「置く」や 「寄せる」という言葉をつないで使う事が多いです。 日常的には 「全幅の信頼」という言葉を使うシーンは少なく、どちらかといえばビジネスシーンで使う事が多い言葉だといえるでしょう。 例えば人事査定が行われる直前などに、人事権を持つ上司と会った時は、 「全幅の信頼」という言葉を使うチャンスです。 「部長に 「全幅の信頼」を置いています」などと、服従の意思を示すセリフとして 「全幅の信頼」を使うと、上司からの覚えが良くなるかもしれません。 純粋にお得意先への親愛の情を示す事もできますし、 「期待を裏切らないように」釘を刺すような使い方もできます。

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775夜『角川類語新辞典』大野晋・浜西正人

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そこは編集工学研究所が借りていて、1階の井寸房(せいすんぼう)や本楼(ほんろう)、2階のイシス編集学校の事務局にあたる学林と制作チーム、3階の企画プロデューサー・チームと総務・経理などに分かれている。 その3階に松岡正剛事務所も入っていて、ここに太田・和泉・寺平・西村の机、そしてぼくの作業用書斎がある。 部屋ではなく書棚で囲んだ領土(領分)になっていて、8畳まで広くない。 ふだんは、この「囲い」の中の大きめの机の上にシャープの書院とDELLのパソコンが並んでいて、二つを同時に使って執筆する。 両方とも通信回線は切ってある。 だからぼくへの通信は松岡正剛事務所のスタッフを通してもらわなければならない。 ケータイ(スマホは持たない)も番号を知る者はごく少数なので、めったに鳴らない。 メールも切ってある(メールは30年間、使っていない)。 思想系の本と新着本と贈呈本ばかりで、選書の基準は「できるだけ複雑に」というものだ。 「面倒がかかる本」ばかりが集まっているのだ。 ただ、すでに満杯である。 だからときどき棚卸しをして、各階に配架して隙間をあける。 配架といっても、全館の書棚にはすでにおそらく6万冊以上の本が入っているので、こちらももはや溢れ出ている状態だ。 だから二重置きしているほうが圧倒的に多い。 それでも、たいていの本の位置は太田と寺平がおぼえている。 ひとつは肺癌手術をしたあと、事務所が導入してくれたリクライニングチェアだ。 食後や疲れたときにここに坐り、たいてい本を読む。 ほどなくして疲れて背を倒して寝る。 これはほぼ日課になってきた。 ここで着替えるのだが、この作業がぼくには必須なのである。 本を摘読することと着替えることとは、まったく同義のことであるからだ。 「本」と「服」とは、ぼくにはぴったり同じものなのだ。 実はもうひとつ同義なものがある。 それは「煙草」と「お茶」(あるいは珈琲)だ。 ちなみに自宅の書斎はもっと小さい。 書院とipad、それに書棚が二つで、本の数はごく少量だ。 いつも300冊くらいが少しずつ着替えているくらいだと思う。 戦時中ではないのだから過剰な自制は必要ないし、相互監視などもってのほかだけれど、逆にお気楽なユーチューブ・ラリーが続いているのも、いただけない。 仮にそれが「はげまし」の連鎖だとしても、自粛解除のあとはどうするのか。 きっとライブやドラマ撮影や小屋打ちが再開して、ふだんの平時に戻るだけなのだろう。 もっとも自粛中のテレワークはけっこう便利そうだったので、うまくリモート・コミュニケーションをまぜるだけになるのだろう。 思うに、ニューノーマルなんて幻想なのである。 その宿命を背負っているのは、なんといっても病院などの医事現場である。 感染治療も感染対策もたいへんだし、治療や看護にあたる従事者の心労も続く。 経営もしだいに逼迫していくだろう。 なぜこうなっているかといえば、原因はいろいろあるけれど、細菌やウイルスがもたらす疾病が「個人治療」だけではなく「人類治療」にかかわるからである。 人間一人ずつに対処して治療する。 これに対してウイルス対策は「究極要因」を相手にする。 いわば人類が相手なのである。 人類が相手だということは「生きもの」全部が相手だということで、人間も「生きもの」として見なければならないということになる。 これについては長谷川眞理子さんの『生き物をめぐる4つの「なぜ」』(集英社新書)という好著がある。 ゼツヒツの1冊だ。 進化医学では感染症の発熱を感染熱とはみなさない。 ウイルスなどの病原菌が生育する条件を悪化(劣化)させるために、われわれの体がおこしている現象だとみなす。 免疫系の細胞のほうが病原菌よりも高温性に耐性があることを活用して発熱をもたらしたのである。 だからすぐさま解熱剤を投与したり、体を冷却しすぎたりすることは、かえって感染症を広げてしまうことになりかねない。 ウイルスは血中の鉄分を減少させることも知られているが、これもあえてそういう対策を体のほうが選択したためだった。 「苦労する免疫」仮説を唱えて話題を呼んだ。 そういえば、かつてパラサイト・シングルといった用語をつくり、その後もフリーターや家族社会学について独自の見解を発表していた山田昌弘が、2004年に『希望格差社会』(筑摩書房)で、ネシーの「苦労する免疫」仮説をうまくとりあげていたことを思い出した。 いずれも大いに考えさせられた。 イーワルドはTED(2007)で急性感染症をとりあげ、「われわれは、細菌を飼いならせるのか」というユニークなトークを展開している。 イーワルドの言い分から今回のCOVID19のことを類推すると、武漢での飲料水や糞尿や補水がカギを握っていたということになる。 COVID19パンデミックの渦中の4月25日、HCU(ハイパーコーポレート・ユニバーシティ)第15期目の最終回をハイブリッド・スタイルで開催した。 本楼をキースタジオにして、80人を越えるネット参加者に同時視聴してもらうというスタイルだ。 リアル参加も受け付けたので、三菱の福元くん、リクルートの奥本くん、大津からの中山くんら、5人の塾生が本楼に駆けつけた。 さあ、これだけの参加者とぼくのレクチャーを、どういうふうにAIDAをとるか。 「顔」と「言葉」と「本」を現場と送信画面をスイッチングしながらつなげたのである。 まずは本楼で5台のカメラを動かし、チャット担当に2人(八田・衣笠さん)をあて、記事中継者(上杉くん)が付きっきりで事態のコンテンツ推移の様子をエディティングしつづけるようにした。 スイッチャー(穂積くん)にも立ってもらった。 かくしてハイブリッドHCUは、昼下がり1時の参加チェック開始からざっと7時間に及んだのである。 だからテレワークをしたわけではない。 ぼくは最近のテレワークにはほとんど関心がない。 当時はFAXもなく、オートバイで資料やダミーや原稿を運びあって、制作編集をしつづけたものだった。 最近のテレワークは適用機材の仕様に依存しすぎて、かえって何かを「死なせて」いるか、大事なことを「減殺しすぎて」いるように思う。 プロクセミックスとアフォーダンスがおバカになってしまうのだ。 テレビもネット参加の映像を試みているけれど、いまのところ芸がない。 はたしてうまくいったかどうか。 それは参加者の感想を聞かないとわからないが、ディレクターには小森康仁に当たってもらい、1週間前にラフプランをつくり、前日は映像・音声・照明のリハーサルもした。 こういう時にいつも絶対フォロアーになってくれてきた渡辺文子は自宅でその一部始終をモニターし、コメントしてくれた。 当日の現場のほうは佐々木千佳・安藤昭子・吉村堅樹が舞台まわしを仕切った。 安藤の胸のエンジンがしだいに唸りはじめていたので、この反応を目印に進めようと思った。 書物というもの、表紙がすべてを断固として集約表現しているし、それなりの厚みとボリュームもあるので、見せようによっては、ぼくの「語り」を凌駕する力をもつ。 けれどもやってみると、けっこう忙しく、目配りも届ききれず、自分が多次元リアル・ヴァーチャルの同時送受の浸透力にしだいに負けてくるのがよくわかった。 76歳には過剰だったのかもしれない。 まあ、それはともかく、やってのけたのだ。 すでに昨年10月から演劇ではこまつ座の座長の井上麻矢ちゃんが(井上ひさしのお嬢さん)が、スポーツからは昔なじみのアメフトのスター並河研さんとヘッドコーチの大橋誠さんが、ビリヤードからは大井直幸プロと岡田将輝協会理事が、文楽からは2日にわたって吉田玉男さんのご一門(3役すべて総勢10人余)が、そして茶道から遠州流の小堀宗実家元以下の御一党が(宗家のスペースも提供していただいた)、いったい稽古と本番とのAIDAにあるものは何なのか、いろいろ見せたり、話したり、濃ゆ~く演じてみせてくれたので、これをあらためて振り返るのはたいへん楽しかった。 たとえばベンヤミンやポランニーやエドワード・ホールだ。 ついでに最新刊の『日本文化の核心』(講談社現代新書)からのフリップも入れた。 とくに日本株式会社の多くが平時に有事を入れ込まないようになって、久しく低迷したままなので(いざというとお金とマスクをばらまくだけなので)、こちらについてはかなりキツイ苦言を呈してみた。 このことを前提にしておかない日本なんて、あるいはグローバルスタンダードにのみ追随している日本なんて、かなりの体たらくなのである。 そのことに苦言を呈した。 もっと早々にデュアルスタンダードにとりくんでいなければならなかったのである。 つまり地球生命系のアントロポセンな危機が到来しているということなのだが、そのことがちっとも交わされていない日本をどうするのか、そこを問うた。 ぐったりしたけれど、そのあとの参加者の声はすばらしいものだったので、ちょっとホッとした。 そのうち別のかたちで、「顔」と「言葉」と「本」を「世界と日本」のために、強くつなげてみたいものである。 RNAウイルスの暴風が吹き荒れているのである。 新型コロナウイルスがSARSやMARSや新型インフルエンザの「変異体」であることを、もっと早くに中国は発表すべきだったのだろう。 そのうえで感染症を抑える薬剤開発やワクチンづくりに臨んでみたかった。 せめてフランク・ライアンの『破壊する創造者』(ハヤカワ文庫)、フレデリック・ケックの『流感世界』(水声社)を読んでほしい。 千夜千冊ではカール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』を紹介したが、中身はたいしたことがなく、武村政春さんの何冊かを下敷きにしたので(講談社ブルーバックスが多い)、そちらを入手されるのがいいだろう。 「自粛嫌い」のぼくも、さすがに家族からもスタッフからも「自制」を勧告されていて、この2週間の仕事の半分近くがネット・コミュニケーションになってきた(リアル2・5割、ネット参加7・5割のハイブリッド型)。 それはそれ、松岡正剛はマスクが嫌い、歩きタバコ大好き派なので、もはや東京からは排除されてしかるべき宿命の持ち主になりつつあるらしい。 そのうち放逐されるだろう。 学生時代に、このコンベンションに付き合うのは勘弁してもらいたいと思って以来のことだ。 下戸でもある。 だから結婚式や葬儀がひどく苦手で、とっくに親戚づきあいも遠のいたままにある。 たいへん申し訳ない。 レイ・ブラッドベリの家に行ったとき、地下室にミッキーマウスとディズニーグッズが所狭しと飾ってあったので、この天下のSF作家のものも読まなくなったほどだ。 これについては亡きナムジュン・パイクと意見が一致した。 かつての豊島園には少し心が動いたが、明るい改装が続いてからは行っていない。 格闘技はリングスが好きだったけれど、横浜アリーナで前田日明がアレクサンダー・カレリンに強烈なバックドロップを食らって引退して以来、行かなくなった。 ごめんなさい。 子供時代はバスケットの会場と競泳大会の観戦によく行っていた。 それは7割がたは「本」による散策だ(残りはノートの中での散策)。 実は、その脳内散歩ではマスクもするし、消毒もする。 感染を遮断するのではなく、つまらない感染に出会うときに消毒をする。 これがわが「ほん・ほん」の自衛策である。 ぼくとしてはめずらしくかなり明快に日本文化のスタイルと、そのスタイルを読み解くためのジャパン・フィルターを明示した。 パンデミックのど真ん中、本屋さんに行くのも躊らわれる中での刊行だったけれど、なんとか息吹いてくれているようだ。 デヴィッド・ノーブルさんが上手に訳してくれた。 出版文化産業振興財団の発行である。 いろいろ参考になるのではないかと思う。 中井久夫ファンだったぼくの考え方も随所に洩しておいた。 次の千夜千冊エディションは4月半ばに『大アジア』が出る。 これも特異な「変異体」の思想を扱ったもので、竹内好から中島岳志に及ぶアジア主義議論とは少しく別の見方を導入した。 日本人がアジア人であるかどうか、今後も問われていくだろう。 1月~2月はガリレオやヘルマン・ワイルなどの物理や数学の古典にはまっていた。 この、隙間読書の深度が突き刺すようにおもしろくなる理由については、うまく説明できない。 「間食」の誘惑? 「別腹」のせい? 「脇見」のグッドパフォーマンス? それとも「気晴らし演奏」の醍醐味? などと考えてみるのだが、実はよくわからない。 新型コロナウィルス騒ぎでもちきりなのだ。 パンデミック間近かな勢いがじわじわ報道されていて、それなのに対策と現実とがそぐわないと感じている市民が、世界中にいる。 何をどうしていくと、何がどうなるはかわからないけれど、これはどう見ても「ウィルスとは何か」ということなのである。 けれどもいわゆる細菌や病原菌などの「バイキン」とは異なって、正体が説明しにくい。 まさに隙間だけで動く。 ところがウィルスはこれらをもってない。 自分はタンパク質でできているのに、その合成はできない。 生物は細胞があれば、生きるのに必要なエネルギーをつくる製造ラインが自前でもてるのだが、ウィルスにはその代謝力がないのである。 だから他の生物に寄生する。 宿主を選ぶわけだ、宿主の細胞に入って仮のジンセーを生きながらえる。 ところがこれらは自立していない。 他の環境だけで躍如する。 べつだん「悪さ」をするためではなく、さまざまな生物に宿を借りて、鳥インフルエンザ・ウィルスなどとなる。 もっとはっきり予想していえば「借りの情報活動体」なのだ。 鍵と鍵穴のどちらとは言わないが、半分ずつの鍵と鍵穴をつくったところで、つまり一丁「前」のところで「仮の宿」にトランジットする宿命(情報活動)を選んだのだろうと思う。 たとえば一人の肺の中には、平均174種類ほどのウィルスが寝泊まりしているのである。 さまざまな情報イデオロギーや情報スタイルがどのように感染してきたのか、感染しうるのか、そのプロセスを追いかけてきたようにも思うのだ。 まあ、幽閉老人みたいなものだが、何をしていたかといえば、猫と遊び、仕事をしていたわけだ。 千夜千冊エディションを連続的に仕上げていたに近い。 木村久美子の乾坤一擲で準備が進められてきたイシス編集学校20周年を記念して組まれたとびきり特別講座だ。 開講から104名が一斉に本を読み、その感想を綴り始めた。 なかなか壮観だ。 壮観なだけでなく、おもしろい。 やっぱり本をめぐる呟きには格別なものがある。 ツイッターでは及びもつかない。 参加資格は編集学校の受講者にかぎられているのが、実はミソなのである。 ちょっと摘まんでみると、こんなふうだ。 赤坂真理の天皇モンダイへの迫り方も、大竹伸朗のアートの絶景化もいいからね。 イーガンや大澤君のものはどうしても読んでおいてほしいからね。 これらの感想について、冊師たちが交わしている対応が、またまた読ませる。 カトめぐ、よくやっている。 穂村弘『絶叫委員会』、原田マハ『リーチ先生』、上野千鶴子『女ぎらい』、畑中章宏『天災と日本人』、藤田紘一郎『脳はバカ、腸はかしこい』、ボルヘス『詩という仕事について』、松岡正剛『白川静』、モラスキー『占領の記憶・記憶の占領』、柄谷行人『隠喩としての建築』、藤野英人『投資家みたいに生きろ』、バウマン『コミュニティ』、酒井順子『本が多すぎる』、バラード『沈んだ世界』、堀江敏幸『回送電車』、アーサー・ビナード『日々の非常口』、島田ゆか『ハムとケロ』、ダマシオ『意識と自己』、荒俣宏『帝都物語』、白州正子『縁あって』、野地秩嘉『キャンティ物語』、ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡』、國分功一郎『原子力時代における哲学』、ミハル・アイヴァス『黄金時代』、ウェイツキン『習得への情熱』、江國香織『絵本を抱えて部屋のすみへ』、内田樹『身体の言い分』。 このへんも嬉しいね、アイヴァスを読んでくれている。 ぼくが読んでいない本はいくらもあるけれど、イシスな諸君の読み方を読んでいると、伊藤美誠のミマパンチを見たり、中邑真輔のケリが跳んだときの快感もあって、それで充分だよと思える。 もともとはモルフェウスのしからしむ誘眠幻覚との戯れなのだけれど、これを共読(ともよみ)に変じたとたんに、世界化がおこるのだ。 こんな快楽、ほかにはめったにやってこない。 満を持してのエディションというわけではないが(それはいつものことなので)、みなさんが想像するような構成ではない。 現代思想の歴々の編集力がいかに卓抜なものか、これまでのポストモダンな見方をいったん離れて、敷居をまたぐ編集、対角線を斜めに折る編集、エノンセによる編集、テキスト多様性による編集、スタンツェ(あらゆる技法を収納するに足る小部屋もしくは容器)を動かす編集、アナモルフィック・リーディングによる編集を、思う存分つなげたのだ。 かなり気にいっている。 なかでポランニーが「不意の確証」は「ダイナモ・オブジェクティブ・カップリング」(動的対象結合)によっておこる、それがわれわれに「見えない連鎖」を告知しているんだと展望しているところが、ぼくは大好きなのである。 鍵は「準同型」「擬同型」のもちまわりにある。 「世界は本である」「なぜなら世界はメタフォリカル・リーディングでしか読めないからだ」と喝破した有名な著作だ。 最後にキエラン・イーガンの唯一無比の学習論である『想像力を触発する教育』にお出まし願った。 この1冊は天才ヴィゴツキーの再来だった。 あしからず。 編集力のヒントとしては『情報生命』も自画自賛したいけれど、あれはちょっとぶっ飛んでいた。 『編集力』は本気本格をめざしたのだ。 ぜひ手にとっていただきたい。 あしからず。 ところが、気持ちのほうはそういうみなさんとぐだぐたしたいという願望のほうが募っていて、これではまったくもって「やっさもっさ」なのである。 やっぱりCOPD(肺気腫)が進行しているらしい。 それでもタバコをやめないのだから、以上つまりは、万事は自業自得なのであります。 来年、それでもなんだかえらそうなことを言っていたら、どうぞお目こぼしをお願いします。 それではみなさん、今夜もほんほん、明日もほんほん。 最近読んだいくつかを紹介する。 ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』(同時代社)は、革命思想の成長と目標をめぐって自己陶冶か外部注入かを議論する。 「する」のか「させる」のか、そこが問題なのである。 同時代社は日共から除名された川上徹がおこした版元で、孤立無援を闘っている。 2年前、『川上徹《終末》日記』が刊行された。 コールサック社をほぼ一人で切り盛りしている鈴木比佐雄にも注目したい。 現代詩・短歌・俳諧の作品集をずうっと刊行しつづけて、なおその勢いがとまらない。 ずいぶんたくさんの未知の詩人を教えてもらった。 注文が多い日々がくることを祈る。 ぼくは鷲津繁男に触発されてビザンチンに惑溺したのだが、その後は涸れていた。 知泉書館は教父哲学やクザーヌスやオッカムを読むには欠かせない。 リアム・ドリューの『わたしは哺乳類です』とジョン・ヒッグスの『人類の意識を変えた20世紀』(インターシフト)などがその一例。 ドリューはわれわれの中にひそむ哺乳類をうまく浮き出させ、ヒッグスは巧みに20世紀の思想と文化を圧縮展望した。 インターシフトは工作舎時代の編集スタッフだった宮野尾充晴がやっている版元で、『プルーストとイカ』などが話題になった。 原研哉と及川仁が表紙デザインをしている。 最近、太田光の「芸人人語」という連載が始まっているのだが、なかなか読ませる。 今月は現代アートへのいちゃもんで、イイところを突いていた。 さらにきわどい芸談に向かってほしい。 佐藤優の連載「混沌とした時代のはじまり」(今月は北村尚と今井尚哉の官邸人事の話)とともに愉しみにしている。 ついでながら大阪大学と京阪電鉄が組んでいる「鉄道芸術祭」が9回目を迎えて、またまたヴァージョンアツプをしているようだ。 「都市の身体」を掲げた。 仕掛け人は木ノ下智恵子さんで、いろいろ工夫し、かなりの努力を払っている。 ぼくも数年前にナビゲーターを依頼されたが、その情熱に煽られた。 いろいろ呆れた。 とくに国語と数学の記述試験の採点にムラができるという議論は、情けない。 人員が揃わないからとか、教員の負担が大きいからとかの問題ではない。 教員が記述型の採点ができないこと自体が由々しいことなのである。 ふだんの大学教員が文脈評価のレベルを維持できていないということだ。 類語は英語ではシノニム(synonym)という。 このシノニムを徹底的に集めたものが(thesaurus)である。 言葉をつかう仕事では、つねに「意味を調べる作業」と「意味を生み出す作業」とが平行して交互に試されている。 「意味を調べる作業」には国語辞典や漢和辞典が活躍するが、「意味を生み出す作業」にはシソーラスが必要である。 日本のシソーラスにはというとんでもなく優秀なものもある。 学生時代、類語辞典にロクなものしかなかったころ、ぼくは「マルクス類語ノート」というものをつくったものだった。 マル・エン選集を読みながら、片っ端から語彙やフレーズをノートに記録していくのだが、最初にノートに数ページおきの適当なアドレスを振り分けておかなければならない。 たとえば「」「」「」「」「」というふうに。 しばらくしてこれを眺めると、そこに「類が類を呼んでいる姿」が見えてくる。 ところがよくよく見ると、足りなかったりすることがわかってくる。 そこでまた作りなおし、これを繰り返していく。 むろん途中で挫折したり、どうも配当がちがっていたり、そもそものアドレスがよくなかったりしたが、ことほどさように、シソーラスづくりは完璧など期そうなどとすると、たいへんなことになる。 一方、自由にシソーラスをつくるのは、こんなに愉快な作業はない。 ここでシソーラスと言っているのは、シソーラス・ダイヤグラムのことである。 たとえば「」というシソーラス、たとえば「」というシソーラス、たとえば「シソーラス」。 こういうものは、いくらでもつくれる。 だいたいは一枚のA4の白紙を前に次々にドローイングしながら作っていく。 だいたいのラフなシソーラスができあがると、しばらく置いておいて、何かを読んだり考えたりしているときに、ああ、そうだと思いついたことを加える。 あらかたの形が整うと、これに構造や矢印や引出し線を与える。 そんな作業だ。 数えたことはないけれど、おそらく数百枚のシソーラスを作ってきたのではないかと思う。 というよりも、ぼくの思考作業や編集作業はほとんどシソーラスづくりから始まっているといってよい。 仲間の高橋秀元君はぼくよりもずっと本格的なシソーラスづくりの名人で、放っておくと小さな類語辞典ができるほどである。 ただし、シソーラス・ダイヤグラムもあまりに関係線が複雑になりすぎると、そのペーパーが真っ黒になり、しかも十数枚にもおよぶことになって、これは小論文に近くなる。 それでもまだ作業をやめないのが高橋君なのだ。 英語圏のシソーラスには『ロジェのシソーラス』という名うての類語集成がある。 しかし、ロジェとはだいぶん主旨がちがっているが、ものすごいものがある。 それは明治42年に志田義秀と佐伯常麿によって編纂された『日本類語大辞典』(晴光館)である。 この大辞典は当時も今日も空前絶後の日本語シソーラスというべきものであって、ぼくなどはちょっと古い言葉の類縁を調べたいときは、松岡静雄の傑作『日本古語大辞典』(刀江書院)とともに、いまなお首っ引になる。 これを凌ぐものはまだ日本ではまったく出ていない。 芳賀矢一の校訂だった。 いまは講談社の学術文庫に2冊本として再版された。 もっともこちらは旧版を縮小して復刻したものなので、字が小さすぎて、とても引けたものじゃない。 また、この『日本類語大辞典』は類語間の関係性を追求しているというよりも、一語一語の類語の近似語を収録したものなので(したがって辞書性は濃いのだが)、引き始めると何回となくページをまたいで類縁関係を追わなければならないので、かなり時間がかかる。 また、現代語はほとんど載っていない。 ともかくも日本語の類語辞典はながらくこの大冊だけだったのである。 しかもこのようなものがあるにもかかわらず、本格的にはあまり汎用されてこなかった。 そこでこれに代わる引きやすく、類語間の相互連関性に富んだ日本語シソーラスが待望されていたのだが、そこにやっと登場したのが本書であった。 編集作業は民間の国語学者の浜西正人さんが積み上げて、これを大野晋さんが「位相」などの新しい視点を加えた。 ざっと紹介しておこう。 本書の語彙分類構造は十進分類になっていて、まず大項目が「自然・性状・変動・行動・心情・人物・性向・社会・学芸・物品」に大別される。 ついでこれが、それぞれ十進ずつの中項目に分かれる。 たとえば「自然」は「天文・暦日・気象・地勢・景観・植物・動物・生理・物質・物象」というふうに、また「行動」は「動作・往来・表情・見聞・陳述・寝食・労役・授受・操作・生産」に、「心情」は「感覚・思考・学習・意向・要求・誘導・闘争・栄辱・愛憎・悲喜」というふうに。 この中項目のマトリックスがまずもってユニークなのである。 ここがしっかりしないと全体の意味構造の立体的な相互関連性が崩れるのだが、本辞典は手を抜いてはいない。 しかし「自然」の十分類などは易しいが、たとえば「性状」を十の中項目に分けるのはセンスがいる。 そこを編者たちは「位置・形状・数量・実質・刺激・時間・状態・価値・類型・程度」という絶妙な分類にした。 「刺激」や「程度」が入っているのが、なかなかなのだ。 さらにユニークなのは次の小項目である。 具体的に示したほうがいいだろうから、煩瑣になることをおそれずに例示していくが、たとえば、大「性状」の中「位置」は、「位置・こそあど・点・内外・前後左右・上下・入り口・周辺・遠近・方向」というふうに、同じく大「性状」の中「程度」では、「程度・標準・等級・並み・限度・大変・細大・一層・大体・こんな」というふうに分かれる。 この小項目がまことに痒いところに手を届かせている。 「こそあど」「周辺」「並み」「大体」「こんな」なんて、日本語シソーラスならではの検索項目だ。 そこでたとえば、大「性状」の中「位置」の小「周辺」を引いてみると、ずらり147語におよぶ類語が並んで待っている。 これは使える。 むろん一語一語には2~3行の解説と用例とがついている。 加えて、大野晋さんの提案で「位相」のマークが付加されていて、その言葉がどのような意味の地図の上にあるかを示した。 といった位相である。 それでは、ぼくがこれをどう使っているかという例を、簡単にお目にかけておく。 たとえば「しゃあしゃあとした態度」という言葉が浮かんだとしよう。 何かの文章を書いていて、「その学者の態度はしゃあしゃあとしていた」と書いてみて、どうもこれではもうひとつぴったりこないと思ったわけである。 そこで、本辞典の巻末索引で「しゃあしゃあ」を引く。 528ページにあった。 開いてみると、そこは小項目「平静」の箇所で、中項目は「身振り」になっている。 まず「平静」に並んでいる類語を見る。 「いけしゃあしゃあ・おめおめ・ぬけぬけ・痛くも痒くもない・へいちゃら・のほほんと・平気の平左・怖めず臆せず・何のその」などと、左右に類語がズラリと並ぶ。 とうていこんなにたくさんの類語は浮かばなかった。 これはホクホクだ。 なるほど「おめおめ」「何のその」か! こうして、そうか、あいつの態度は「しゃあしゃあ」というよりも「ぬけぬけ」だったのかと、この想定推理も俄然おもしろくなってくる。 しかも別のグルーピングには「沈着・平静・冷静・冷厳・悠揚・自若・恬然」といった漢語グループが所狭しと並び、ここからは、ふむふむ「わざとらしい自若」なんてのもいいぞといったヒントが出てくる。 さらに前後の小項目では「乱暴」の類語、「茫然」の類語がリストされている。 これも見逃せない。 なぜなら、ぼくが当初に「しゃあしゃあ」という言葉で思ったことは、ひょっとして「茫然」の身振りであったかもしれないからである。 そこには「むっと・険しい・憤然・憮然・険阻」などの類語がある。 そこでふいに「その学者は険しくもぬけぬけとした顔で」と言ったほうがぴったりくるなと思ったりするわけである。 さて、ここであらためて中項目「身振り」がどこに所属していたかを見てみると、大項目は「性向」である。 そして「姿態」「身振り」「態度」「対人態度」「性格」というふうに連なっている。 そこで、ま、待てよなのだ。 この「対人態度」が気になる。 これを見ないではいられない。 なになに「高慢」か。 なるほど、あいつの「しゃあしゃあ」は高慢なのだ。 これを引かないでは、あいつの態度を言葉にしきれない。 こうなると、もはや意地である。 どうにもあいつにぴったりの懲らしめるような言葉を探したくなっている。 「高慢」にはいろいろ類語があった。 みんなあいつにあてはまりそうではあるが、ちょっとここまで言うのは気の毒だ。 これこれ、「ちょこざい」で「小賢しい」んだよ。

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